絵画の旅「マリー・アントワネットのお抱え女流画家エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン」

マリー・アントワネットのお抱え女流画家 ルーヴル美術館
有名な女流画家は、マリー・アントワネットのお抱え女流画家。
エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン

Elisabeth-Louise Vigee Le Brun 1755年4月16日 – 1842年3月30日)
18世紀の最も有名なフランス人女流画家。 画家ヴィジェの娘としてパリで
生まれ親から絵画教育を受け、当時の大家たちから の助言を受けた 彼女は,
10代の早い時期に、すでに職業として肖像画を描いていました。
1776年に、画家で画商であるジャン・バティスト・ピエール・ルブランと
結婚しました。 多くの貴族の肖像画を描いて、画家として成功しました。
そして、マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に
招かれ、 次の数年間は、ヴィジェ・ルブランは王妃や子供たち、王族や
家族の肖像画を 数多く依頼され、王妃を満足させました。  
1783年3月31日、ヴィジェ・ルブランはフランスの王立絵画彫刻家
アカデミーの 会員に、歴史画家として迎えられました。 また女流画家
アデライド・ラビーユ・ギアールも同じ日に入会が認められました。
 ヴィジェ・ルブランの入会は、夫が画商であることを理由にアカデミーを
管理する 男性たちに反対されましたが、結局、彼らの主張はルイ16世の
命令によって 破棄されました。
マリー・アントワネットが自分のお抱え画家のために、夫に相当な圧力を
かけたからで あります。

同日に2名以上の女性の入会が認められたことで、女性と男性メンバーでは
なく、女性同士が比較される事は当然の事だったのです。
フランス革命の最中に王族が逮捕された後、ヴィジェ・ルブランは革命で
顧問客を失い、 彼女自身も逃亡しなくてはならなくなってしまい、
数年間をイタリア、オーストリア、 ロシアで生活して、画家として
働きました。 そこでは貴族の顧客を扱った事が、それまでの経験がとても
役立ちロシアでは貴族たち から歓迎され 女帝エカチェリーナ2世の皇族
一員を多数描きました。  
ロシア滞在中にヴィジェ・ルブランはサンクトペテルブルク美術アカデミーの
会員と なりました。  
第一帝政期にヴィジェ・ルブランはフランスに戻りましたが、また、
イギリスを訪れ バイロンを含む数名のイギリス貴族の肖像画を描きました。
1802年には帝政時代のフランスに帰国し、ナポレオン・ボナパルトの妹の
肖像画を 描きましたが、ナポレオンとの折り合いが悪く、1807年には
スイスに赴き、 ジュネーヴの Societe pour l,Avancement des Beaux-Arts の
名誉会員と なりました。
フランスが王政復古するとルイ18世は、彼女を手厚く迎えてフランスを
安住の地としました。
彼女はご存知のように王妃マリー・アントワネットのお抱え宮廷画家 だったので、
ヴェルサイユ宮殿を訪れると彼女が描いたたくさんの絵画に出会えると 思います。

マリーアントワネットそして、とても有名な「マリー・アントワネットと子供たち」の絵画