NO.137フランス音楽界の異端児「エリック/サティ」を訪ねて
美しい港町オンフールで生まれた繊細な才能フランス音楽界の異端児
「エリック/サティ」を訪ねて ・・・・
丸いぶ厚い眼鏡をかけ山高帽をかぶり音楽界の異端児の愛称を持つエリック・サティは、おそらく
誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。
繊細なメロディハ西洋音楽に新風を巻き起こした革命児といわれている。
ノルマンディ出身の父親とスコットランド系の母親との間に生まれたサテイは、ここオンフールで
生まれ幼少期を過ごした。
8歳のときサンレオナール協会のオルガニスト「ヴィーノ」に音楽を習い12歳でパリの音楽学校に
入り次々と曲を生み出し、モンマルとの文学酒場でピアニストとしての活動を始める。
この時期、多くの芸術家の溜まり場「カフェ・コンセール」(黒猫)の常連「ジャンコクトー」や「ピカソ」
と交流を深めた。かのドビッシーもサテイから多くの作曲技法を学んだとこ公言している。
サテイの音楽の特徴は、単純な音階の連続とその間で進行する近代的和声進行、古きよき
オンフールの風景をイメージさせる繊細なメロディと面白い曲のタイトル・・・例えば「干からびた胎児」や「花崗岩的狂乱」など奇妙な言葉が並んでいる。
59歳でこの世を去るまでオンフールに戻ってくることはなかったが46歳の時「音楽評論」と言う
雑誌のなかでオンフールの町についてこんな記載をしている。
「詩的なエーヌの流れと、荒々しいイギリス海峡の波が一緒になる港町」
この言葉こそが、繊細なサテイの音楽メロディのスタイルそのものでは・・・・・・・・・
この時期のノルマンデーは観光客も少なく冬のどんよりした海はブータンの絵そのもの。
サテイ探訪の旅を考えている貴方にはピッタリのタイムトラベルの時期かもしれません。
セーヌ川の河口に広がる美しいノルマンデーの港町の探索とおいしい海の幸で楽しんでみるの
もいいかもしれません。時間のない方はパリからに日帰りも可能ですが列車とバスで乗り継ぐ
形になるので時間を調べていく事をおすすめします!
Erik Satie「エリック・サティについて」 |
「生まれるのが早すぎた」と評される数少ない作曲家の1人である。
フランス生まれのエリック・サティ(1866―1925)。その類まれなる才能と前衛性ゆえ、
生前は人々に理解されることなく、貧困の中その生涯を閉じることとなった悲劇な
アーティストでもある。
彼はパリ音楽院でアカデミックな音楽教育を受けたこともあったが、基本的には独学で
作曲法を習得。そのため、ジャンルの枠にとらわれることからも、大衆を意識した作品を
制作することからも逃れ、既成のルールに縛られない独自の音楽を追求できたのだった。
ワーグナー、そしてドビュッシーの印象派音楽全盛の時代に、ドライで皮肉なウィットに
富んだ楽曲を呈示したサティ。
一見軽く奇抜なメロディの奥には深いテーマが潜んでおり、そのスピリチュアルな
世界が胸に響く。なかでも「Trois Gymnopedies」はギリシャの精神鍛練を表現した
作品で、最も有名な1曲と言えるだろう。
また「Vexations」は、ジョン・ケージに演奏されたことでもよく知られているが、
この曲は152の音符で構成されたメロディを840回繰り返すというもので、演奏時間は
なんと18時間以上にもなる。このようなおそるべき独自性が、20世紀アヴァンギャルド・
ムーヴメントのゴッド・ファーザー的存在として未だ彼がリスペクトされている
ゆえんだろう。
エリックサテイの生涯
- 1866年 – 5月17日オンフルールにて誕生。英国国教会で洗礼をうける。
- 1870年 – 父アルフレッド・サティが海運業をやめ、パリに移住。
- 1872年 – スコットランド人の母ジェイン死亡。オンフルールに住む父方の祖父母に預けられ、カトリックとして再度洗礼。
- 1874年 – 祖父ジュール・サティがエリックにヴィーノのもとで音楽を学ばせる。
- 1878年 – 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。
- サティは父のいるパリへ再度移住。
- 1879年 – パリ音楽院に入学。父アルフレッドがピアノ教師であったウジェニー・バルネシュと再婚。
- 1886年 – 音楽院を退学する。
- 1890年 – 薔薇十字教団創始者ジョセファン・ペラダンと出会う。
- 1891年 – 聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に任命される。
- 1893年 – シュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、彼女に300通を超える手紙を書く。6ヵ月後ヴァラドンと絶交。
- 1905年 – スコラ・カントルム入学。
- 1908年 – スコラ・カントルム卒業。パリ郊外アルクイユの急進社会主義委員会に入党。
- 1925年 – 7月1日聖ジョセフ病院にて肝硬変のため歿。アルクイユの公共墓地に埋葬。