No.221.ノルマンディーの歴史
ノルマンディーの歴史
ノルマンディ–の名は、9世紀に北欧からやってきたノルマン人」(ヴァイキング)
に由来します。当時ヴァイキングは、セーヌ川をさかのぼりあちこちの町を
荒らし回っていました。
手を焼いたフランス王シャルル3世は、懐柔策として一族の首領ロロンに
ノルマンディ―地方の領有を認めノルマンディ―公に叙することにしました。
ときは911年。ノルマン公国の始まりです!キリスト教に改宗し、自分たちが
壊した修道院や教会を再建し、武具を農具に持ち替えて大地を耕し現在みられる
ノルマンディ―の美しい風景が生まれたのです。
1066年、ノルマンディ―公ウイリアムがへイスティングの戦いでイングランドを
征服、イングランド王ウイリアム1世となり、ノルマン朝を成立。
バイユーに残るタペストリーには、イングランド征服の様子がいききと
描かれています。
その後、ノルマンディー公国は、1204年フランス王フイリップ2世に併合され、
3世紀の歴史に幕を下ろしました。
百年戦争時は、再びイングランド手に渡りますが、1450年最終的にフランス領と
なりました。その戦いのさなか、救国の少女「ジャンヌダルク」がルーアンで
火刑にされる悲劇が起こりました。
ノルマンディ―といえば、忘れられないのが第2次世界大戦末期の連合軍による、
ノルマンディー上陸作戦です。
ナチス・ドイツ軍に占領されたノルマンディ―奪回の戦いは、連合軍の勝利に
終わりましたが各地に深い傷跡を残しました。この海岸を訪れたなら、のどかな
風景の裏に隠された悲しい歴史に思いをはせてみたいものです。
ノルマンディ―上陸作戦 Le
debarquement
1944年6月6日(D-Day)早朝、連合軍最高司令官アイゼンハワー米大統領
指揮下で史上空前規模の上陸作戦が敢行。
上陸地点となった海岸は、暗号名のユタ、オマハ、ゴールド、ジュノー、
スウォードの名で呼ばれることになります。
ナチス・ドイツ軍の抵抗にあいながら6/26のシュルブール解放、7月のカン解放、
サンローの戦いを経て8月には、ファレーズでの包囲網を展開し、8/21に
ドイツ軍は条件降伏を申し出て戦いは、終わりを告げました。
77日間に及ぶ戦闘で10万人の兵士と2万人のフランス市民が犠牲となり
歴史ある美しい街が瓦礫の山と化しました。
1万人近い死傷者を出したことから「血のオマハ」と呼ばれたオマハ・ビーチの
近くには米軍墓地があります。芝生一面に並ぶ無数の白い十字架とダビテの星は
見る者の胸を締め付けます。戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため
激戦地となった場所では、戦績が保存され戦争博物館が建てられています。